このページでは本当に良い音楽演奏を聞くことによって生き生きと美しく咲く花と同じ素晴らしい本来の自分に目覚めることを述べます。

絶対的感動とは

このページでの記述を正しく理解していただくために、このサイトの本当に良い音楽のページの”二種類の感動と音楽”で述べたことを以下に繰り返して述べます、

二種類の感動

感動には二種類あることにお気づきでしょうか?

例えば志望校の受験に合格したとか、サッカーで日本チームが国際試合で優勝したとかいう時に、心に感動が生じます。 一般的に知られているこの種の感動はすべて何等かの理由があって生じるもので、これを「条件付感動」と呼びます。

この感動は激しい場合もありますが、その条件が無くなれば消えてしまう一時的なものです。また期待していた結果が得られなかった場合は落胆することになります。従って「相対的感動」と呼ぶこともできます。何かを期待して生きている限り、私たちは感動と落胆、即ち喜怒哀楽を繰り返す人生を送ることになります。

実はあまりはっきりとは意識されていないのですが、私たちの体の中に生じているこれとは別の感動があります。例えば私たちが探し物を見つけた時や、道に迷った末にやっと目的地にたどり着いた時に生じる、ホッとした安心感を伴った感動があります。

これらは探し物や目的地が見つかったという条件があったので生じた感動ではなく、探し物や目的地が見つからないという心の動揺が去ったために生じるものです。長年目標に向かって努力して来たが力不足で叶わなかったかった時にも、炎が燃え尽きて静寂が訪れるが如く、この種の感動が生じる場合もあります。

この時よく自分自身に集中すると、それは心ではなく体に生じている感動であることが分かります。そしてそれは前述の心に生じた感動と比べ、自分にとってはるかに大切なものであることに気がつくでしょう。

いま感動が「生じる」と表現しましたが、正確には感動は生じたのではなく元々あったもので、心の動揺が去ったのでその存在に気がついたということです。この感動は私たちが生きているだけで常に生じているもので、これを「無条件の感動」あるいは「絶対的感動」と呼びます。

絶対的感動と相対的感動との関係は、大海とその表面に生じた荒波、と考えると理解し易いと思います。私たちは色々なものに惹かれたりあるいは忌み嫌ったりして心がいつも波立っているために、その奥に存在する絶対的感動に気がつきません。一方、自然のままに生きている乳児や犬や猫などのペットたちはに絶対的感動の中に生きております。そのため彼らに接すると同調して私たちの中に絶対的感動が生じます。彼等は「生きていること自体が感動である」という、すつかり忘れ去られている真理を私達に思い出させてくれます。

良い音楽演奏によって絶対的感動が生じる

良い音楽演奏を聞くと絶対的感動が生じます。言い換えれば良い音楽演奏は私たちの中にある絶対的感動に気づかせてくれます。それは聴衆にとって新しい体験ではなく、心の故郷に戻った様な懐かしさを伴った、静かで温かい感動です。その感動によって人々の波立つ心は鎮まり、正しく生きる勇気が生じます。これこそが音楽の真価です。

絶対的感動は皮膚の内側面に生じる

以上の説明を補足しておきます。上述のように絶対的感動は心ではなく体に生じるものです。具体的には全身を包む皮膚の内側面、特に前胸上部の気道部に強く生じます。開閉感覚起動法のサイトのこのページをご参照下さい。

なおこの皮膚の内側面に意識を置くことはこのページでこれから何回か出て来る同調の操作を容易に行うために極めて大切です。またここに意識を置くだけで万物との一体化が実現し、誰もが開B以上になります。

開Sの演奏者の演奏によって絶対的感動が生じる

開Sの演奏者のページで開S、とくに花の開S(開SF)の演奏を聞くと、この絶対的感動が生じます。例えばプレトニョフの演奏を聞いて絶対的感動が生じた時、皆さんはプレトニョフが素晴らしい、あるいはプレトニョフの演奏が素晴らしいと思うでしょう。もちろんその通りなのですが、絶対的感動が生じた時にもう一つ是非気が付いていただきたいことがあります。

実は本来の自分自身が感動そのものである

それは絶対的感動が生じている自分自身が素晴らしいということ、自分自身が素晴らしいので絶対的感動が生じているということ、本来の自分自身に集中すると絶対的感動が生じる程素晴らしい存在であること、煎じ詰めて言えば本来の自分自身が感動そのものであるということです。

我々一人一人は自然界、あるいは宇宙の一構成要素です。この場合の我々一人一人を”個”、そして自然界とか宇宙を”全”と表現することします。海の表面を見るとそこに生じた波は一つ一つ別の存在の様に見えますが、海の中から見るとすべて一体で波を識別することは出来ません。個と全の関係は波と海の関係と全く同じです。

海の表面すなわち皮膚の外側面の外側に広がる世界(五感で捉えられる世界)は個と個が対立する緊張の世界です。一方海の中すなわち皮膚の内側面の内側に広がる世界(開閉感覚で捉えられる世界)は一体で自他の区別の無い安心の世界であり、それが本来の自分の世界です。絶対的感動はここで生じる感動です。

プレトニョフが演奏を開始すると瞬時にその振動が聴衆に伝わり、その振動によって海の中すなわち皮膚の内側面に広がる世界が感動の世界であることに気が付きます。演奏によって感動が生じた様に思えますが、正確には演奏によって、この世界が感動の世界であることに気が付くのです。そしてこの世界は元々自分が住んでいた世界であり、自分自身が感動の中の光り輝く存在であるということです。

音楽によって聴衆は自身の素晴らしさに気付く

演奏者が集中して感動の世界と一体になって演奏すれば、聴衆は同調して感動の世界に導かれます。そして聴衆が導かれた素晴らしい感動の世界は本来の自分自身が始めも無く終わりも無くずっと住み続けている世界であり、自分そのものと言えます。本当に良い音楽演奏によって聴衆は素晴らしい自分自身に気が付くのです。

人間は花に戻ることが出来る

花がもたらす感動

( マウスオーバーで画像が変わります。)

この写真に写っている花も葉も自然で気持ちを和ませてくれます。見ている人は葉よりも花に気を引かれ、見ていると感動が生じます。心が鎮まった状態で前胸上部内側面に意識を置くと、写真の中の花を見ている時は気道部分が開き、安心感を伴った感動が生じていることが分かります。

この写真をマウスオーバーする(カーソルを写真の上に持って来る)と、広島に原爆が投下された時の画像になります。自然界を破壊するこの大惨事の写真を見ている時には気道部分は閉じ、不安感を伴った緊張状態が生じます。

気道部分の変化を把握出来る様になるまで画像を何回か切り替えて確認して下さい。そして原爆投下の写真を見た時との対比ではっきりする花を見ている時に生じる安心感を伴った感動を印象としてしっかりと捉えて下さい。

動物はみな花

次に動物たちの写真をご覧下さい。


( マウスオーバーで画像が変わります。)

これらの写真一つ一つに集中した時に、はじめの花の写真に集中した時に生じた感動と同じ感動が生じていることにお気付きでしょうか? この写真をマウスオーバーすると花の写真に入れ替わりますので、何度か切替を繰り返して同じ感動が生じることを確かめて下さい。共通の感動が生じていることが確認出来ない人は、動物に対する先入観即ち心に支配されている可能性があります。動物の写真を見る時もしっかり前胸上部の気道部に意識を置いて下さい。これは心の支配から解放されるための良い訓練になります。

人間も乳児期は花

次に乳幼児の写真をご覧下さい。


( マウスオーバーで画像が変わります。)

マウスオーバーすると花の写真に入れ替わります。乳幼児の写真と花の写真を交互に表示すると、〇歳児、一歳児は花ですが、二歳児は花ではなくなっていることに気付かれますでしょうか? そうです。人間も生後二年間位は花なのですが、それを過ぎると花ではなくなってしまいます。

人間は緊張波動によって花ではなくなる

上の左と中央は同じ二歳児の写真です。開閉感覚を使える方は、右の花の写真と照合すると二歳児は花ではないことがお分かりいただけると思います。そこでもしKAIES(ポケットKAIES、KAIESライト、身体処理用KAIES等)をお持ちでしたら左の二歳児の写真を乗せてみて下さい。中央の二歳児が花になったことに気が付かれると思います。

KAIESは緊張波動を処理するツールですから、緊張波動を取り除いたら花に戻ったということになります。すなわち人間も他の動物と同じ様に本来は花なのですが、人類が作り出した緊張波動によって花ではなくなっているということです。

人類は花に戻にるヒントは乳児にある

このことから人類が花に戻る方法が見えて来ます。緊張波動が無くなれば花に戻れますが、この地球と言う惑星上の環境においては、人類の緊張波動を生み出す習性が無くなることは期待できません。それよりも〇歳児・一歳児が緊張波動の中に居ながら花であることを保っていることに目を向けるべきです。

意識を”全”に置けば花になる

海の表面を見るとそこに生じた波は一つ一つ別の存在の様に見えますが、海の中から見るとすべて一体で波を識別することは出来ません。個と全の関係は波と海の関係と全く同じです。〇歳児・一歳児はすべてが一体の全の中に意識がありますので花そのものです。人類が大人になっても花であり続けるには、意識が全から離れないことが必須の条件になります。

ところが二歳になると五感の発達によって自他の区別が始まって個が生じ、意識が全の中の安心の世界から表面に広がる緊張の世界に移り始めます。そして五感の発達によって生じた心が支配権を持つ様になって意識が全から離れると、緊張波動に掛かられる様になって花ではなくなります。

花の開Sの演奏によって花に戻る

五感が発達して自他の区別が出来る様になってしまった人類が花であり続けるにするにはどうしたたら良いでしょうか? 花の開S(開SF)の演奏を聞いている間はそれに同調して誰でも花になります。ところが聞き終わってしばらくすると花ではなくなります。

そこでまず花の開S(開SF)の演奏を聞いている時に、あるいは花を始めとする開SFのものに集中している時に、自分自身の体に生じている感動にしっかり気付くことから始めます。具体的には、音楽演奏を聞いている時に生じる感動の中心は前胸上部内側面の気道部分にありますので、その感動を印象としてしっかり把握します。

それが出来た人は音楽を聞いていない時も、あるいは花を見ていない時も、その感動を維持します。詳しくは前胸上部内側面の気道部分に生じた感動を音楽演奏を聞くのを止めても維持する様にします。これは何か芸事をしていると身に付き易いです。

自分も音楽演奏をしている人はこの感動を維持したまま演奏します。音楽演奏をしない人でも、例えば絵画、書道、茶道、生け花等、あるいは武道、スポーツ等、この感動が生じている態勢を維持したまま行います。日時生活でも掃除、特に拭き掃除等もこの訓練に適しています。

丹田で支えられた態勢が最重要ポイント

開SFの音楽演奏を聞いたり花を見ていて生じた感動を印象としてはっきり捉え、次にその感動を維持したまま芸事をはじめ物事を成そうとすると、その態勢を丹田で支えなければ感動を維持出来ないことに気が付きます。この”丹田で支えられた態勢”こそが物事を個の力ではなく全の力で成す、開SFになるための最重要ポイントです。

日常的に気が付いたらこの感動を維持する様にしていると、習慣化されて無意識でも維持される様になります。こうなった人は花になっており、喜びを外に求めずとも自分の中に既に存在していることを実感し、安心して前向きな人生を歩むことになります。

開Sの演奏者は開の状態をアクティブ化すれば花(開SF)になる

上の写真花も葉も開Sですが、葉と比べて花は生き生きとして美しく、魅力があります。演奏者が開の状態を丹田で支えて演奏すれば全と一体になって開Sになりますが、それだけですと”葉の開S”です。開Sの演奏者は上述の開SFのもの、すなわち花や動物、一歳までの乳幼児に同調して生ずる感動を印象として把握し、その印象を維持したまま演奏すれば開SFになります。すなわち開Sの演奏者がそれまでの開の状態をアクティブ化(活性化)すれば開SFになります。

なお演奏者が開SFの印象を維持しながら演奏するということは、演奏面で他に色々と気を使わなければならないのでそれどころではないと思われるかも知れませんが、ここで私が述べているのは演奏態勢、即ち体の次元のことですから、はじめにその態勢を取ってしまえば後は自動的に持続されるものだということを、やってみれば納得される筈です。

この様な開SFになることを目的とした方法を取らなくても、自分の役割遂行に集中し、成すことを極めて行く内に、自らの才能が完全に開花した時には開SFになります。それが本道とも言えますが、成就に長い年月を要すことになるでしょう。

全から演奏家本来の音楽がもたらされる

聴衆との一体化によって演奏家は容易に全と一体になることが出来ます。聴衆の体は全の一部であり、その聴衆と一体になれば全と一体になっているからです。こうして全と一つになれば、そこからその演奏家自身の本来の音楽が感性としてもたらされるでしょう。