上野の国立西洋美術館で「モネ 睡蓮のとき」が開催されており、NHKテレビの日曜美術館という番組でも、「モネ 睡蓮にひたる」というテーマで紹介されました。私も数日前に美術館で鑑賞したのですが、とても貴重な発見がありましたので、紹介させていただきます。

印象派の巨匠とされるクロード・モネ(1840年~1926年)は、50歳代の半ばを過ぎてから、睡蓮の咲く水の庭をモチーフに描き始めました。86歳(1926年)で亡くなるまでに描いた作品は300点を超えます。そのきっかけは、43歳(11883年)の時にパリから北西に80km離れたノルマンディー地方のジヴェルニーに移住して空き家になった農園を手に入れたことです。

そこで彼は、庭の野菜や果樹などの実用的な植物をすべて取り払い、代わりに自ら取り寄せた色鮮やかな花々を植え、色の配置や見え方など、自らの絵のモチーフとなる庭作りに没頭しました。さらに53歳(1893年)になったモネは、かねてから計画していた水の庭の造成に取り掛かりました。川の水を引き込んだ楕円形の池、そのイメージとなったのが、浮世絵などを通して興味を持っていた日本の美でした。

モネの庭園の写真

池に掛かるのは太鼓橋、その上には藤棚やしだれ柳、モネの日本趣味を色濃く反映しています。池の主役としてモネが選んだのが睡蓮で、当時パリ万博で発表されたばかりの貴重な品種を取り寄せました。更に理想的な配置を求め、睡蓮を鉢に植え、池に沈めました。モネにとっての水の庭は、画家の目で作り上げた理想の風景そのものでした。

 

睡蓮を描き始めた初期の作品は、睡蓮の花をキャンパス一杯に描き、睡蓮の美しさを表現していました。

1897年 59歳 睡蓮 夕暮れの効果

それよりも20年以上前に書かれた下の絵と比較すると、モネにとって睡蓮(の咲く水の庭)との宿命の出会いが、如何に大きな喜びであったかがはっきりと窺われます。その喜びは心ではなく体から湧き出て来るもので、以降の作品を生み出す原動力となっています。

1874年 34歳 印象 日の出

これは音楽演奏家が、自分の天性を存分に発揮することが出来る楽曲を作ってくれる作曲家を見つけた場合に匹敵すると言って良いでしよう。モネという演奏家にとって、睡蓮の咲く水の庭という作曲家が生み出してくれる風景こそが、彼の天性を存分に発揮出来る楽曲だったということです。

 

60歳(1900年)代になると、睡蓮をより遠くの視点から、群生として描く様になりました。花から生ずる感動だけでなく、花を囲む自然全体から生ずるより大きな感動を表現する様になりました。

1903年 63歳 睡蓮

 

そして更に、70歳代になると、壁面全体を覆う様な大装飾画を描く様になり、観ている人達に睡蓮の庭を散策している様な印象を持たせる作品になって来ました。

1919年 70歳 藤

モネ自身は「都市の生活に疲れた人達が睡蓮に囲まれて、心安らかに瞑想できる様な空間を作りたかった」と述べています。それは始め食堂の様な小さなプライベートな空間の装飾でしたが、74歳以降は作品が大きくなり、より公共性の強い、パブリックな装飾へと発展して行きました。それは丁度その時第一次世界大戦が始まったことに関係していたと思われます。

当時は戦争の渦中で、モネ自身の次男も出征し、国民には多くの死傷者が発生していました。モネは「多くの人々が苦しみ死んでいく中で、形や色を探求することに戸惑いを感じる。しかし、ふさぎ込んでも何も変わりはしない、だから私は大装飾画を目指している。」と述べています。そして終戦の翌日、モネは当時の首相に睡蓮の大装飾画を国に寄贈すると申し出ました。睡蓮の装飾画はフランス国民のために描かれていたということです。

 

モネが夢見た大装飾画のための美術館は、モネが亡くなった翌年、1927年に完成しました。

オランジュリー美術館 大装飾画

 

テレビの番組では、モネが何故睡蓮の咲く水の庭を描き続けていたのか、いくつかの意見が述べられていましたが、論じ合うまでもなく、モネの絵を、目ではなく体で見ることによって、絵を描いている時のモネと一体になりますので、その理由が容易に理解されます。

国が戦争状態で、自分の息子も出征するという緊張状態を経験し、更に71歳(1911年)には妻が亡くなり、74歳(1914年)には長男が亡くなり、更に自身も白内障を患い、失明の危機に晒されました。 にも拘わらず、モネは絵を描くために自分の作った自然豊かな庭に居ると、自分自身が大いなる安心感を伴った感動状態になることに気が付きました。そして自分と同様に、戦争で緊張状態に有る国民と大安心を伴った感動を分かち合いたいと思う様になり、自分に安心をもたらしている睡蓮の咲く水の庭のエネルギーのこもった大装飾画を描き、絵を見る人々が、自分がその庭に居る時と同じ大きな安心状態になってもらうことを目指したのです。

「モネ 睡蓮のとき」が開催されている上野の国立西洋美術館に行くと、前述のオランジュリー美術館 大装飾画を真似て、楕円形の部屋に9枚の絵が飾ってあります。開閉感覚を起動して音楽を体で聞くのと同じ様に、絵画を体で見ることが出来るに人にはすぐにお分かりいただけると思いますが、この部屋の9枚の絵に同調すると、自分自身の体が大安心を伴った感動状態になっていることに気が付きます。下の写真は部屋全体を撮っているため、1枚1枚の絵は小さくなっていますが、目ではなく体で見る場合は、小さくて何が描かれいるか分からなくても、体には大きな感動が生じます。

1916年 76歳~ 9枚の大装飾画

この部屋に飾られている9枚の絵は、すべて1916年すなわちモネが76歳前後の時の作品ばかりです。モネはこの頃から、絵を描くために大自然と一体になっている自分の体に生じている感動が、後々この絵を見る人の体にも生じていることをイメージして描くことを始めたのです。

音楽演奏家が、自分の体に生じている感動が聴衆に伝わることをイメージして演奏すると、演奏家と聴衆は一体となり、聴衆の体が感動状態になるのと全く同じ現象です。モネは画家としての究極の使命に気が付いたのです。

芸術に限らず、人間は皆、大自然における自分の役割を意識した時、大自然と一体になり、計り知れないパワーが生み出されます。モネの美術展で彼の作品を年代別に観察して行くと、そのパワーの存在に気が付きます。

 

1916年頃以降の作品は皆このパワーが感じられるのですが、最晩年に近くなるにつれて暖色系が多くなり、それに伴い、体自体の不調のためか、パワーの揺ぎ無さがやや失われて来ていることを付け加えておきます。下の二つの絵を比較するとそのことに気が付きます。芸術は体が生み出すものですので、芸術家は万全な体調を維持することも大切であることが分かります。

1916年 76歳 睡蓮

 

1918~1924年 78~84歳 日本の橋

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