ミハイル・プレトニョフ

ミハイル・プレトニョフは21歳でチャイコフスキーコンクールで優勝してから世界にその名を知られる様になりましたが、当時私の知る限りでは音楽演奏家だけでなく古今東西のあらゆる芸術家の中で”開S”の唯一の存在でした。ルーブル美術館に展示されているレオナルド・ダ・ヴィンチやキケランジェロ等を始めとする大芸術家たちは皆”開A”のランクであることから、プレトニョフが如何に希少な存在であったかが覗えます。他の分野も含めて開Sと言えば、18歳で悟りを開かれた鎌倉円覚寺の故朝比奈宗源元管長しか見つけられませんでした。

私が属していた治療業界において、治すことで知られる治療家の多くは開Bでした。開Bの治療家に治療してもらった患者さんは治療直後には開Bになります。患者さんが治療家以上のレベルになることはありません。私はプレトニョフを知ることによって開Sというレベルの存在を知ることになり、如何にして患者さんを治療後に開Sにするかということを探求することになりました。プレトニョフは私に治療効果判定の基準を与えてくれたことになります。

彼の演奏は聞き続けていても決して飽きたり疲れたりしないので、治療院のBGMとして聞き続けておりましたが、その演奏スタイルを変化させた節目が二つあります。

  1. 1990年、33歳の彼がロシア・ナショナル管弦楽団を結成して指揮を始めた時
  2. 2013年、56歳の時にピアニストとしての7年間のブランクから復活を果たした時

1の前と後とでは野球のピッチャーに例えると、直球勝負のピッチャーと変化球勝負のピッチャーの違いに例えられます。20歳台の頃は強靱かつ驚くべき技巧で、なおかつそれに支えられた大きな音楽を聴衆に運んでいました。ところが30歳台になって指揮を始めた時から、”オーケストラという楽器を演奏”する体験がきっかけとなったのか、多彩な表現をし始めました。開閉感覚ではなく耳で聴いたレベルでは、正直なところ私は物足りなさを感じていました。2006年にベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音した後、突然のピアニスト引退宣言をしました。自分の出したい音が出ない、したい表現が出来ないので、ピアノという楽器そのものに満足が行かなかったことが推測されます。

2012年、55歳の時に彼の能力を発現出来るピアノ“SUIGERU KAWAI”のSK-EXとの出会いにより、ピアニストとしての活動を再開しました。それから10年の歳月を経過しましたが、私が感じていた物足りなさは急速に改善されました。そしてここ1年間は演奏は彼でなければ成し得ない独特の表現が完成の域に達したと言えると思います。独特な曲の歌い回しや、間の取り方、テンポ、音の強弱の付け方等が細部に渡るまで貫かれており、それは集中を極めることによって読み取れる表現の仕方に従っているのだと思われます。現在の彼の演奏を聞いたらクラシックファンになる人が少なくないと思われます。ただし”正しい解釈”の信奉者には耳を塞ぎたくなる様な人もいるかも知れません。

それに呼応するかの様に、最近1年間のプレトニョフの演奏は”花の開S“です。彼にとって究極の表現をするための集中力が、65歳の彼に更なる進化をもたらしたのだと思います。私が人生でこの偉大な芸術家と共に生きられたことは誠に幸運だったと言わざるを得ません。

何回か彼のコンサートの後に面会したことがありますが、最後に握手を交わした時の手の感触は、孫の手を握った時と全く同じで、純粋極まりないものであったことがいつまでも印象に残っております。

 

ケヴィン・ケナー

ケヴィンとはヨーグルトの実験がきっかけでの仲となりました。彼に関して特筆すべきことは極めて誠実な人間であること、そして”花の開S”演奏者はプレトニョフが1年位前から、藤田真央君が2年半位前のチャイコフスキー・コンクールの頃からなのに対し、彼が1990年のショパンコンクールに出場した時から”花の演奏者”だったということです。(彼は現在開Sですが、当時は開Aでしたので”花の開S”演奏者とは書けません)。

彼の演奏は魅力的で引き付けられるものがあり、今迄のショパンコンクールのどの優勝者にも劣ることの無いピアニストです。ショパンコンクールの時に体調を崩してしまったこともあって1位無しの2位となったことがその後の彼の活躍を致命的に妨げることになった様です。ショパンコンクールでは2位や3位でもその後活躍するピアニストが多いのですが、”1位無し”の2位ということがイメージを悪くしている様です。良い音楽が分からないクラシックファンが如何に多いかということが証明されている、とも言えます。

それはともかく、ヨーグルトの実験が証明する様に、彼の演奏を聞くと確実に生命力は高まります。ショパンコンクールは一流のピアニストを多数輩出して来た権威あるコンクールですが、1990年のケヴィン、そして2021年に反田君を1位にしなかったことだけは汚点と言えます。

 

藤田真央

真央君は私の治療の現役時代に何度も治療しました。治療前と治療後とでピアノを演奏した時の状態の変化を見た方が良い時は自宅に併設している音楽教室に来てもらいました。治療後の状態を見るためにピアノを弾いてもらった時に、私の妻も一緒にいた時がありました。当時の妻は風邪をひくと風邪は治っても咳だけ長く残るタイプで、丁度その時も咳が長引いている状態の時でした。

真央君がピアノを弾き始めると妻が言うには胸が急に温かくなって来たそうで、その時はそれ以来咳が出なくなってしまいました。その後妻に合った漢方薬が見つかったり、KAIESを胸に当てたりで咳が長引くことは無くなりましたが、その時の彼の演奏は漢方薬やKAIESと同じ効果があったということになります。

彼の演奏会に行くと分かることですが、彼は聴衆と一体になって演奏するクラシック界には非常に珍しいタイプの演奏家で、演奏のパワーが直接聞く人の接体の中に働くことと、そして彼の父がドクターですので、もしかするとその遺伝子の働きも加わってか、聞く人に対する治療効果には特別なものがあります。

フィギュアスケートで羽生結弦選手がオリンピックで4回転半に挑戦しました。それとの比較で言うと彼には5回転を安定して飛べる位の演奏技術がありますが、彼の最大の特長は何よりもその輝く音にあります。聴衆は何も考えずに聞こえて来る音にすべてを委ねていれば、緊張から解放され、全身に生命力が蘇ります。

彼はピアノを弾くことにおいて”天才中の天才”と言っても過言ではない存在ですが、彼の半生を見ていると世界中に名を轟かすための道が敷かれているかの様で、そのことも広義の天才であるとの印象を持ちます。そしてその敷かれた道を間違えずに歩んで来たところも彼の優れた所と言えると思います。